わっふるぶろぐ

わっふるが日々の出来事をただただ書いていきます~

チェスとテニスのジレンマ

ある思考実験をしてみよう。

あなたは今から目隠しをされ、どこかもわからない無人島に置き去りにされる。そこは絶海の孤島だが、幸いにも植物や動物は存在する。あなたはこの無人島から脱出しなければならないのだが、知識人と船大工のどちらか一方を連れて行くことができる。あなたはどちらの人物を選ぶだろうか。

あなたは、知識人を選んだとしよう。その聡明な人物は、生えている植物、無人島の気候、漂着物などからおおよその位置を特定し、頭の中にある世界地図から、どの方角にどれだけ進めば大陸にたどり着くか突き止めた。そして、その知識人はあなたに尋ねる。「ところで、船はどこにありますか。」

では、船大工を選んだとしよう。その人物は、木取法、固着法、かしめ作業などの卓越した造船技術を駆使し、どんな荒波に揉まれても壊れない完璧な木造船を作り上げた。そして、あなたにこう尋ねる。「ところで、ここはどこですか。」

おそらくあなたは、「ならば、地理学や気象学に造詣が深く、造船の技術もある人物を連れて行けばいい。」と思うだろう。しかし、果たしてそのような都合のいい人物は存在するのだろうか。

この問題を考えると、専門的な知識や技術が無駄であるかのように思えてしまう。まるで、誰よりも優れたチェスの知識を得ても、誰よりも優れたテニスの技術を得ても無駄であるかのように。私はこれを「チェスとテニスのジレンマ」と勝手に呼んでいる。人はこのジレンマを回避するため、知識の幅を広げ、複数の専門分野を持とうとする。しかし、それは愚かな思考の誤りである。

覚えておいてほしい。私たちの資源は限られている。専門分野の知識や技術を習得するほど、その他の分野に使えるお金や時間などの資源は少なくなる。そして、あなたが専門分野の幅を広げようとすれば、元から得ていた知識や技術は相対的に劣っていく。つまり、あなたは複数のレースで1位を取ることはできない。あなたがボビー・フィッシャーよりも優れたチェスプレイヤーであっても、ロジャー・フェデラーよりも優れたテニスプレイヤーにはなれない。逆もまた然りである。「世界ランキング1位のテニスプレイヤー」になれるのと、「世界ランキング50位のテニスプレイヤーかつ世界ランキング60位のチェスプレイヤー」になれるのとではどちらがいいか。当然、前者の方がいいに決まっている。

チェスとテニスのジレンマの最も愚かな回避策は、「ハンマーを持つ人にはすべてが釘に見える」というものだ。これはアメリカの心理学者、アブラハム・マズローの言葉で、人は自分の専門分野はあらゆる問題を解決できると思い込んでしまう。しかし、たとえあなたが知識人でも、もしくは船大工でも、あなた一人では無人島を脱出することはできない。

では、あなたたちには無人島を脱出することは不可能なのか。そんなはずはない。実は、先の思考実験ではとある前提条件を考慮していなかった。あなたの専門分野だ。この思考実験は、あなたと異なる専門分野の人を連れて行くことが重要である。もしあなたが木造船を作る技術があるのならば、知識人を連れて行くといい。逆に、もしあなたが居場所を突き止める知識があるのならば、船大工を連れて行くといい。あなたとその人物が協力すれば、無人島から脱出できる。しかし、注意すべきは、あなたと同じ専門分野の人を連れて行ってはいけない。知識人がいくら集まっても木造船は作れないし、船大工がいくら集まってもどちらに進むべきかわからない。

結論。一つの専門分野で解決できる問題は少ない。それでも、「文武両道」など目指すべきではない。世間では、いくつかの分野にある程度詳しい人よりも、一つの圧倒的な専門分野を持つ人の方が重宝される。「多才な人」よりも「スペシャリスト」を目指そう。そして、自分だけでは解決できない問題に直面したら、自分の専門分野とは違う分野のスペシャリストと協力しよう

スタージョンの法則

私は最近、映画を観たり、本を読んだりする機会が増た。次はどの映画を観ようか、どの本を読もうか探していると、つくづく思うことがある。

アメリカのSF作家、シオドア・スタージョンは、SF小説の90%はガラクタだという批判に対して、「確かにその通りだ。だが、映画、文学、消費材などその他あらゆるものの90%はガラクだ。ジャンルなんて関係ない。」と答えた。彼のこの答えは今日、スタージョンの法則として知られている。あなたは、スタージョンの意見が少し大げさに聞こえるかもしれない。しかし実際のところ、この世界はガラクタで満ちている。

映画の90%はつまらない。本の90%は読む気もしない。広告の90%はどうでもいい。Eメールの90%は中身がない。ツイートの90%は退屈で馬鹿げている。ニュースの90%は知る必要がない。食べ物の90%は体に悪い。講義の90%は役に立たない。そして、これまで出会った人の90%は私にとって価値がない。割合的には、スタージョンの法則は正しいのではないだろうか。

あなたにも、こんな経験はないだろうか。講義に欠席してしまったり、友人たちの食事会に参加できなかったり、期間限定の商品を買い損ねたりなど、何かの機会を逃したとき、とてつもない後悔をしたことがあるのではないだろうか。しかし、気にすることはない。スタージョンの法則の通り、これらの90%はガラクタなのだ。私の経験上、食事会に出なくても友人との仲は変わらないし、そこで得られたであろうものは特にない。期間限定や最新鋭の商品など、イスやテーブルや爪切りやトイレットペーパーに比べたら、取るに足らないだろう。

結論。スタージョンの法則を意識しなければ、資源を無駄に費やし、本当に大切なものを見極めることができなくなる。あらゆるもののほとんどは価値がないことを知っておこう。

『人生の防具』オススメ記事 ベスト3!

『人生の防具』カテゴリーで最初に読んでもらいたいオススメの記事を紹介します!

 

第3位!『対立する意見への憶測』

 

waffle202.hatenablog.com

 

これは記事自体の完成度が比較的高いと思ってます。調べ物を一切しないで自分の言葉だけで書きました。なので対立意見のもっといい対処法があるかもしれません。でも今のところ、一番いい対処法だと勝手に思ってます。

 

第2位!『感情に訴える』

 

waffle202.hatenablog.com

 

単純に記事の執筆時間が圧倒的にかかりました。例えの説明文を何にするかめちゃくちゃ悩んだ。そして、時間をかけて書いただけあって、記事の完成度はこれまでの中で一番高いです。たぶん。

 

第1位!『よい人生の最大要因「運」』

 

waffle202.hatenablog.com

 

これは僕がこの人生の防具で一番大切にしている信条です。自分がすでに幸運に恵まれてることに気付けるかどうかは、よい人生の絶対条件だと思ってます。ちなみに、この中で紹介している女神フォルトゥナの話は、僕は普段考えてない発想です。運命は自然の業と考えてます。与えられた運に意図はありません。なので気にする必要はないのです。

記憶ではなく記録する

突然だが、問題である。

「1940年時点でのドイツ国首相は誰か。」

20世紀のドイツの首相(東西分裂など色々とややこしく、たくさんいる)を全員暗記していれば、すぐにわかるだろう。しかし、そんな者はいないはずだ。それでも、この問題は簡単である。この頃、第二次世界大戦が勃発したことはほとんどの人が知っているし、歴史に詳しい人は、1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻したことを知っているだろう。正解はアドルフ・ヒトラーである。おそらくあなたは、「1940年のドイツの首相はヒトラーだ。」と記憶してなかっただろう。では、なぜあなたはこの問題に正解できたのか。それは、事象をストーリーとして記憶しているからだ。私たちの脳は、ひとつひとつの出来事を繋げて、コンパクトで筋の通った、因果関係がはっきりしたストーリーに仕立て上げる。これは本来、この問題が解けるように、便利な機能ではあるのだが、残念ながら大きな問題を抱えている

おそらく、あなたのこれまでの人生のストーリーには一切の矛盾がないのだろう。辻褄が合わない事柄は都合よく忘れられ、思い出せない部分は驚くべき独創力で穴埋めされる。私たちの記憶のストーリーはリアリティに欠けている。リアリティに欠けた記憶には、主に二つの問題がある。

一つ目、人生は実際より計画可能なものに見えてしまう。以前にも言ったように、人生は偶然に満ちていて、運に頼らざるを得ない場面が多い。また、現実はあなたが記憶しているストーリーよりも複雑で矛盾が多いのだ。

二つ目、自分を過大評価してしまう。私たちは、実際の自分より優秀で、美しく、頭が良く、成功していると思い込んでいる。私の高校の同級生も、「当時の自分は痩せていてかっこよかった。」と言っていたが、高校の卒業写真を見ると、そんなことはなかった。自分の評価を間違うと、誤った決断をしてしまったり、友人に見下される。

あなたは、映画『メメント』をご存知だろうか。数分前の記憶を忘れてしまう前向性健忘の主人公が、数分前の自分が残したメモを頼りに妻殺しの犯人を追う。主人公は劇中でこんなことを言っていた。「記憶は部屋の広さも車の色も間違える。記憶は思い込みだ。記録じゃない。事実とは違ってる。」

結論。「記憶」は、私たちが思っているほど当てにならない。「記録」を残そう。具体的には、日記を書いたり、私のようにブログを書いてみよう。

さて、やるか…

プロジェクトの課題のことである。

教授のやる気が一人歩きしてるなぁ。周囲との温度差を汲み取って合わせないとな。いい反面教師にはなってるかな。俺何度も言ってるでしょう。自分の価値観は自分だけに収めるべきだって。やる気が満ち溢れるならスタートアップ企業でも始めればいい。燃え尽きて失敗するのがオチだがな。まあ、頑張るのもいいけど程々に。俺は知ってるよ、もうかなりの大人だし。

 

さよなら👋

亀がアキレスに言ったこと

アキレス(ギリシア神話に登場する英雄)は、亀に追いついて、甲羅の上に座ってくつろいでいました。
亀は言いました。「ところで、ある競走コースの話をお聞かせしましょうか。二歩か三歩のステップでゴールに着きそうだとみんなが思うのに、実際には無限の距離からなるコースで、しかもどんどん長くなっていくんです。」
「ぜひとも!」ギリシアの戦士はそう言って、ノートと筆を取り出しました。
「二つのステップと、そこから引き出される帰結、それだけです。どうぞ、ノートに書き込んでください。話がしやすいように、それらをA、B、Zと呼ぶことにしましょう。
(A)人間は死ぬ。
(B)ソクラテスは人間である。
(Z)ソクラテスは死ぬ。
 多くの人は、AとBからZを論理的に導けると考えていますよね。つまり、AとBを真(正しいこと)だと認める人は誰でも、Zが真だと認めなければならない、と。」
「間違いない! 高校に入ったばかりの子供でも分かるだろう。」アキレスは答えました。
ここで亀はアキレスにこう問いかけました。「こんなことを言う者はいないでしょうかね、『私はAとBを真だと認めるけど、その仮言命題(もしAとBが真ならば、Zは真である)は認めないよ』なんて。」
「そういう者も間違いなくいるだろう。そんな者は、論理を捨ててフットボールをやるのが賢明だろうな。」
「では、私を、いま言ったような者と見なして下さい。そして論理的に、Zを真であると私に認めさせてください。」
「Zを認めさせればいいんだな、俺は。」アキレスは考えながら言いました。「今の君の立場は、AとBは認めるが、仮言命題は認めない。そうだな?」
「その仮言命題をCと呼びましょう」亀は言いました。
「…では、
(C)もしAとBが真ならば、Zは真でなければならない。
 しかし君はCを認めない。」
「そう、それが今の私の立場です」亀は言いました。
「じゃあ、Cを認めるように君にお願いしなければいけない。」
「認めますよ」亀は言いました。「貴方がそのノートに書き加えてくれればすぐにね。」「では私の言うとおり書いて下さい。
(A)人間は死ぬ。
(B)ソクラテスは人間である。
(C)もしAとBが真ならば、Zは真でなければならない。
(Z)ソクラテスは死ぬ。」
「もし君がAとBとCを認めるなら、Zを認めなければならない。」アキレスは言いました。
「どうして、認めなければならないんですか?」
「論理的に導かれるからだ。もしAとBとCが真なら、Zは真でなければならない。君だって反論しようがないだろう。」
「もしAとBとCが真なら、Zは真でなければならない」亀は考え込むように繰り返しました。「それはまた別の仮言命題ではないですか。それが真だということが分からなければ、私は、AとBとCを認めても、まだZを認めないかもしれませんよ?」
「そうだな」誠実にも英雄は認めました。「では、君にもう一つ仮言命題を受け入れるようお願いしなければならない。」
「よろしい。喜んで受け入れましょう、貴方が書き留めたらすぐにね。それをDと呼びましょう、
(D)もしAとBとCが真ならば、Zは真でなければならない。
 ノートに記入しましたか?」
「したとも!」アキレスは楽しそうに叫んで、筆をケースにしまいました。「ついにこの観念的な競走コースのゴールに着いた! いまや君はAとBとCとDを認めたのだ、当然、Zを認めるだろう。」
「私が?」亀は無邪気に言いました。「私はAとBとCとDを認めた。それでも、私がZを認めることを拒否するとしたら?」
「その時は、論理が君ののどにつかみかかって、無理にでも認めさせるだろう!」アキレスは勝ち誇って答えました。「論理は君に告げる。『お前に自由は無いぞ。AとBとCとDを認めたからには、Zを認めねばならない!』だから君に選択の余地は無いんだ。」
「論理が私に教えてくれるような素晴らしいことなら、書き留めておく価値があります」亀は言いました。「どうぞ、ノートに記入してください。それをこう呼びましょう。
(E)もしAとBとCとDが真ならば、Zは真でなければならない。
 私がそれを受け入れるまでは、当然ながら、Zを受け入れる必要はありません。これはやむを得ないステップです、そうですよね?」
「そうだ」アキレスは言いました。その声は悲しげでした。

 

この対話篇は、『不思議の国のアリス』で有名なルイス・キャロルが、1895年に哲学雑誌『Mind』に書いた『亀がアキレスに言ったこと』を、短く書き換えたものである。このように、論理学の基本的な推論規則に対して、「なぜそうなのか。」という問いを発し続けると、無限後退に陥ってしまうことをルイス・キャロルパラドックスという。私が知り合いにこのパラドックスについて話すと、返ってくる答えは決まって次の二通りに分かれる。

一つ目、話を理解していない。その人の論理的思考力の低さが窺われる。こういった人は、やはりフットボールをやっていればいいのだろう。

二つ目、亀を否定しようとする。アキレスと同じように、私たちが納得する推論規則に疑問を投げかけることが許せないのだろう。しかし、その反駁は論点がズレているか、論理的に正しくない場合が多い。私の知り合いも、「本当に大事なことは言葉にできない。だからノートに書くこと自体ナンセンスだ。」と言っていた。この主張が正しいならば、言葉にできる知り合いの主張は本当に大事なことではない。ゆえに、亀は知り合いの言うことを聞かないだろう。

何人かの哲学者がこのキャロルのパラドックスを解決しようとしてきた。しかし、一世紀以上経った今でも、納得がいく反駁は存在しない。それでも亀を否定しようとするのは、賢明ではない。

キャロルが私たちに教えてくれたことはなんだろう。それは、論理というものは、私たちが認知しているほど完璧ではないということだ。論理学も、占星術や運命論と同様に、大きな問題を抱えている。私たちは、それを理解しておく必要がある。

11月11日

ポッキーの日!なんてどうでもよく、今日は報知器点検おじさんを待ち続けた日だったなぁ。

そして来なかったわ!決して会いたいわけでもない人を待ち続けてしかも来ないって!!

そんなポッキーの日でした。

 

サヨナラ…