以下の7つの問題に答えてほしい。
- ベーシックインカムは導入すべきか。
- 現在の学習指導要領は適切か。
- アフターコロナで世界はどう変わるか。
- 死刑制度は廃止すべきか。
- AIは人類を超えるか。
- 正義とは何か。
- なぜ私たちは存在するのか。
きっとあなたは、これら全ての問いに、すぐに答えることができたのだろう。しかし、これらはどれも即答するには複雑すぎる問題ばかりだ。特に、7番目の問題は哲学の中でも非常に難解な「究極の問い」と呼ばれている。では、あなたの答えはどのくらい妥当なのだろうか。あなたが一般的な知性を持つ人である場合、妥当な答えは1問もない。それでも、人はどんな質問にも答えようとしてしまう。人が答えや意見を発信する際、犯してしまいがちな間違いが三つある。
一つ目、自分の専門外のテーマにも意見を述べてしまう。AIが人類を超えるかは、計算機科学者でも意見が分かれている。専門家でもないあなたの意見が妥当であるはずがない。
二つ目、わかるはずがない問題にも意見を述べてしまう。幽霊は存在するか。死後の世界はどうなっているか。そのような考えてもわからない問題を考える時間があるのなら、今夜の夕食のメニューでも考えている方が合理的だ。
三つ目、自分に関連がない問題にも意見を述べてしまう。死刑制度を廃止すべきか。なぜ戦争はなくならないのか。あなたに関係ない問題に、あなたの貴重な時間を割く必要はない。
多くの人は、わからない問題に「わからない」と言うことができない。知能の低い人と思われたくないのだろう。しかし、塾講師の立場から言わせてほしい。あなたの答え方や意見の述べ方によって、あなたがそれを実際にどのくらい理解しているかが推測できてしまう。それでも答えようとするのは、知能の低さとは関係なく、哀れである。あなたは、わからないことを恥じる必要はない。世間は、わからない人には意外と優しくしてくれる。あらゆる分野には講師や先生がいるし、サービスには大抵カスタマーサポートがある。だが、「わかります」と言ったにもかかわらず、わかっていない人には途端に冷たくなる。他人の期待を裏切ることになるからだ。
結論。自分に関連がない、専門外の質問に答える必要はない。わからない質問には「わからない」と答えよう。意見がないのは、知能の低さの表れではなく、知性の表れなのだ。あなたが経済学者や哲学者でもない限り、先ほどの7問には全て「わからない」と答えるべきだ。