わっふるぶろぐ

わっふるが日々の出来事をただただ書いていきます~

ハンロンの剃刀

その日、三平方の定理の利用方法を指導するのは3度目だった。一度教えては「わかりました。」と言い、問題を間違えては再度教えてを繰り返していた。試しに、私が指導したことを復唱させてみると、その説明は要領を得ず、三平方の定理を理解していないのは明らかだった。なぜこれほど説明してもわからないのか。私は考察し、思いついた答えはとても浅はかだった。「そうか。この生徒は私を困らせたいのだ。」

12時を過ぎ、空腹の状態で昼休みに入った。その弁当を買ったのは初めてではない。とても美味しいのだが、フタと容器の噛み合わせが悪く、テープでとめられてもいないため、片手で持つと容器が不安定になるという欠点があった。そして、いつものように電子レンジで加熱しようとしたそのとき、容器が地面にこぼれ落ち、私の昼食は台無しになった。このとき、私が思ったことは先ほどと同様だった。「この弁当のメーカーはわざとテープを貼らなかったのだ。」

これらの出来事は、私にある教訓を思い出させてくれた。

「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」

20世紀のペンシルベニア州に住むロバート・J・ハンロンという無名の人物に由来するものだ。無能か愚かなだけであることから、他者の意図という余計な憶測を削ぎ落とさなければならない。この文言は今日、「ハンロンの剃刀」と呼ばれている。人は、他人の行いには必ず意図があると思い込んでしまう。自分に不利な事柄は、相手の悪意によってもたらされたと捉える方が都合がいいのだろう。たとえば、いわゆる陰謀論は、他にもっともらしい理由があるにもかかわらず、邪悪で強大な組織の意図が働いていると考えてしまう。ナチスユダヤ人に対するホロコースト、ヨーロッパにおける魔女狩り新型コロナウイルス中国人民解放軍生物兵器陰謀説などもそうだ。しかし、これらに他者の悪意は含まれていない。無能と悪意を取り違えると、主に二つの問題が生じる。

一つ目、意味もなく人間関係を悪くしてしまう。間違った悪意の相手が友人や得意先の人だった場合、将来のコミュニケーションに支障をきたす。私の経験上、本物の悪意というのは、見知らぬ人や元から仲の悪い相手から、はっきりとわかる形で受け取られる。そうでもない場合、悪意とみなすのは間違っている。

二つ目、正常な判断ができなくなってしまう。原因が自分にもあることを認めたくない気持ちはわかる。だが、誤った認識はとても滑稽だ。本当の原因を追求する際、正解を導き出すことは難しいかもしれない。しかし、不正解ははっきりとしている。無能を悪意とみなすのは明らかに誤謬である。

結論。無能と悪意を取り違えてはいけない。生徒は私を困らせたいのではなく、生徒の理解力が足りないだけであり、私の説明力が足りないだけである。