わっふるぶろぐ

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実践による知識

信憑性は薄いが、エジソンにまつわる面白いエピソードがある。

エジソンは新しい助手の採用試験で、申請者全員に対して、「この電球の内部の正確な体積を求められるか。」と質問した。ほとんどの申請者は、高度な数学の知識を駆使して、体積を求めようとした。分度器や計算尺などの計算用具を使用し、電球の複雑な角度を求め、対数と積分の方程式を解くことで、電球の内側の体積を求めようとしたのだ。この方法は、経験豊富な科学者でも約20分はかかる。申請者の多くは方程式を立てることすらできなかったが、この方法で答えを出せた者もいた。一方、一部の申請者は、電球に水を入れ、メスシリンダーに移して水の体積を量った。この方法は、誰がやっても2分未満でできる。最初のアプローチを使用した申請者は、答えを出せた者も皆、不合格となった。しかし、2番目のアプローチを使用した者はすぐに歓迎され、エジソンの助手になった。

知識には、「学問による知識」「実践による知識」の2種類がある。そして、私たちは、学問による知識を過大評価する傾向がある。カウンセラーよりも心理学者を、大工よりも建築士を、エンジニアよりも科学者を高く評価する。しかし、電球を発明したのは、有名な大学を出た物理学者ではなく、小学校を中退したトーマス・エジソンだ。あなたの周りにある物を作ったのは、実践しては失敗し、また実践してと粘り強く繰り返した人たちではないだろうか。紙とペンだけで語られた知識に畏敬の念を抱くのはやめたほうがいい。学問による知識は、主に三つの問題がある。

一つ目、曖昧なところがない。学問は、完璧な理論により、この世界のあらゆる現象を説明してくれる。しかし、現実は学問のように明快で納得できるものではない。複雑で混沌としたこの世界は、コンピュータ・シミュレーションだけでは理解できない。

二つ目、結果が出るのに時間がかかる。学問は、労力に見合う成果がなかなか出ない。エジソンの電球テストも、答えが出るのに膨大な時間がかかり、その計算式は煩雑を極めていた。私も、一つのプログラミング言語を習得する頃には、近所に立派な新築の一軒家が建っていた。

三つ目、新しいものが生まれない推理小説のように、思考を巡らせるだけで何かの真実にたどり着くことは滅多にない。「この世のすべてのカラスは黒いのか。」は、部屋にこもっているだけでは反証できない。外に出て、黒くないカラスを発見する必要がある。

では、学問による知識は無意味なのか。そんなはずはない。おそらくあなたは、計算機科学の粋を集めたスマホを持ち、電子工学の最も優れた発明であるPASMOを改札機にかざし、機械工学の集大成である電車や自動車に乗り、職場に向かっているはずだ。

直流派のエジソンと電流戦争を繰り広げた交流派のニコラ・テスラも、「彼は本での学習や数学的な知識を軽視し、自身の発明家としての直感や実践的なアメリカ人的感覚のみを信じていた。」と言っている。電流戦争は、テスラ側の陣営が勝利した。

結論。学問による知識はたしかに意味がある。しかし、私たちはそれを極端に過大評価している。本当に重要な知識は実践を通して得られる。紙とペンだけではなく、行動することで得られる知識を重視しよう。