わっふるぶろぐ

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亀がアキレスに言ったこと

アキレス(ギリシア神話に登場する英雄)は、亀に追いついて、甲羅の上に座ってくつろいでいました。
亀は言いました。「ところで、ある競走コースの話をお聞かせしましょうか。二歩か三歩のステップでゴールに着きそうだとみんなが思うのに、実際には無限の距離からなるコースで、しかもどんどん長くなっていくんです。」
「ぜひとも!」ギリシアの戦士はそう言って、ノートと筆を取り出しました。
「二つのステップと、そこから引き出される帰結、それだけです。どうぞ、ノートに書き込んでください。話がしやすいように、それらをA、B、Zと呼ぶことにしましょう。
(A)人間は死ぬ。
(B)ソクラテスは人間である。
(Z)ソクラテスは死ぬ。
 多くの人は、AとBからZを論理的に導けると考えていますよね。つまり、AとBを真(正しいこと)だと認める人は誰でも、Zが真だと認めなければならない、と。」
「間違いない! 高校に入ったばかりの子供でも分かるだろう。」アキレスは答えました。
ここで亀はアキレスにこう問いかけました。「こんなことを言う者はいないでしょうかね、『私はAとBを真だと認めるけど、その仮言命題(もしAとBが真ならば、Zは真である)は認めないよ』なんて。」
「そういう者も間違いなくいるだろう。そんな者は、論理を捨ててフットボールをやるのが賢明だろうな。」
「では、私を、いま言ったような者と見なして下さい。そして論理的に、Zを真であると私に認めさせてください。」
「Zを認めさせればいいんだな、俺は。」アキレスは考えながら言いました。「今の君の立場は、AとBは認めるが、仮言命題は認めない。そうだな?」
「その仮言命題をCと呼びましょう」亀は言いました。
「…では、
(C)もしAとBが真ならば、Zは真でなければならない。
 しかし君はCを認めない。」
「そう、それが今の私の立場です」亀は言いました。
「じゃあ、Cを認めるように君にお願いしなければいけない。」
「認めますよ」亀は言いました。「貴方がそのノートに書き加えてくれればすぐにね。」「では私の言うとおり書いて下さい。
(A)人間は死ぬ。
(B)ソクラテスは人間である。
(C)もしAとBが真ならば、Zは真でなければならない。
(Z)ソクラテスは死ぬ。」
「もし君がAとBとCを認めるなら、Zを認めなければならない。」アキレスは言いました。
「どうして、認めなければならないんですか?」
「論理的に導かれるからだ。もしAとBとCが真なら、Zは真でなければならない。君だって反論しようがないだろう。」
「もしAとBとCが真なら、Zは真でなければならない」亀は考え込むように繰り返しました。「それはまた別の仮言命題ではないですか。それが真だということが分からなければ、私は、AとBとCを認めても、まだZを認めないかもしれませんよ?」
「そうだな」誠実にも英雄は認めました。「では、君にもう一つ仮言命題を受け入れるようお願いしなければならない。」
「よろしい。喜んで受け入れましょう、貴方が書き留めたらすぐにね。それをDと呼びましょう、
(D)もしAとBとCが真ならば、Zは真でなければならない。
 ノートに記入しましたか?」
「したとも!」アキレスは楽しそうに叫んで、筆をケースにしまいました。「ついにこの観念的な競走コースのゴールに着いた! いまや君はAとBとCとDを認めたのだ、当然、Zを認めるだろう。」
「私が?」亀は無邪気に言いました。「私はAとBとCとDを認めた。それでも、私がZを認めることを拒否するとしたら?」
「その時は、論理が君ののどにつかみかかって、無理にでも認めさせるだろう!」アキレスは勝ち誇って答えました。「論理は君に告げる。『お前に自由は無いぞ。AとBとCとDを認めたからには、Zを認めねばならない!』だから君に選択の余地は無いんだ。」
「論理が私に教えてくれるような素晴らしいことなら、書き留めておく価値があります」亀は言いました。「どうぞ、ノートに記入してください。それをこう呼びましょう。
(E)もしAとBとCとDが真ならば、Zは真でなければならない。
 私がそれを受け入れるまでは、当然ながら、Zを受け入れる必要はありません。これはやむを得ないステップです、そうですよね?」
「そうだ」アキレスは言いました。その声は悲しげでした。

 

この対話篇は、『不思議の国のアリス』で有名なルイス・キャロルが、1895年に哲学雑誌『Mind』に書いた『亀がアキレスに言ったこと』を、短く書き換えたものである。このように、論理学の基本的な推論規則に対して、「なぜそうなのか。」という問いを発し続けると、無限後退に陥ってしまうことをルイス・キャロルパラドックスという。私が知り合いにこのパラドックスについて話すと、返ってくる答えは決まって次の二通りに分かれる。

一つ目、話を理解していない。その人の論理的思考力の低さが窺われる。こういった人は、やはりフットボールをやっていればいいのだろう。

二つ目、亀を否定しようとする。アキレスと同じように、私たちが納得する推論規則に疑問を投げかけることが許せないのだろう。しかし、その反駁は論点がズレているか、論理的に正しくない場合が多い。私の知り合いも、「本当に大事なことは言葉にできない。だからノートに書くこと自体ナンセンスだ。」と言っていた。この主張が正しいならば、言葉にできる知り合いの主張は本当に大事なことではない。ゆえに、亀は知り合いの言うことを聞かないだろう。

何人かの哲学者がこのキャロルのパラドックスを解決しようとしてきた。しかし、一世紀以上経った今でも、納得がいく反駁は存在しない。それでも亀を否定しようとするのは、賢明ではない。

キャロルが私たちに教えてくれたことはなんだろう。それは、論理というものは、私たちが認知しているほど完璧ではないということだ。論理学も、占星術や運命論と同様に、大きな問題を抱えている。私たちは、それを理解しておく必要がある。