わっふるぶろぐ

わっふるが日々の出来事をただただ書いていきます~

反証不可能な主張

あなたの友人が、「全ての白鳥は白い。」と言って聞かないとする。あなたはどうすれば、この友人に間違いを認めさせることができるか。おそらく、これは簡単であろう。黒鳥(ブラック・スワン)を一匹でも見せてやればいい。また、「朝には必ず太陽が昇る。」と言ってきた場合、これは難しいだろうが、もし一日でも太陽が昇らない日があれば、友人を否定することができる。では、「神は存在する。」と言ってきた場合、どうすればいいのだろう。

ある主張が観察や実験の結果によって否定される可能性をもつことを、反証可能性という。そして、反証不可能な(つまり絶対に否定できない)主張は、信じられやすい。あなたには、信じてやまない世界観があるだろうか。また、その世界観を手放さざるを得ないのは、どんな出来事に遭遇したときか。もしあなたがこの質問に答えられない場合、その世界観は捨てたほうがいい。反証不可能な主張は、あなたの思考を停止させ、短絡的な行動をとらせる。

1991年の湾岸戦争で、イスラエル政府は国民に防毒マスクを無償で支給することにした。しかし一部のユダヤ教徒はマスクを拒否し、その理由を次のように述べた。「我々は科学ではなく神を信じている。防毒マスクを着用しなくても,神が我々を救うつもりなら,我々は助かるし,神に救うつもりがなければ,防毒マスクを着用したところで我々は助からないであろう。」

結論。人は、神、占い、宗教、霊魂、UFO、超能力など、反証不可能なものを信じる傾向がある。誰にも否定されず、深く考察する必要もなく、あらゆる物事に対する説明ができる主張は心地がいいのだろう。しかし、そのような危険な主張には近寄らないほうがいい。物事は論理的に、科学的に解決すべきである。しかし、注意すべきは、論理や科学にも大きな問題があることを理解しよう。

 

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「怒り」との付き合い方

あなたは普段、よく怒るのだろうか。また、怒りをどのように捉えているのだろうか。

怒りについては様々な説明の仕方があるが、簡単に言うと、「危険にさらされた」という認識に起因して生じる感情である。「危険にさらされた」というのは、身体的なことに限らず、自尊心や名誉などの無形のことがらまで含まれる。また、その怒りの矛先も、無形なものである場合もある。あなたも、処理の遅いコンピュータ、長い待ち時間、矛盾している現実、真冬の寒さなどに憤りを覚えたことはないだろうか。

私は以前、人が目指すべき目標の一つに「アタラクシア」というものがあると言った。

 

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平静な心を保ち続けるためには、アタラクシアの大敵であり、特に厄介な感情である「怒り」との付き合い方を知らなくてはいけない。私が気をつけていることは、主に二つある。

一つ目、ストレスを避けるアメリカの心理学者、ドルフ・ツィルマンは次のような実験を行った。まず、実験の助手Aが被験者を悪意に満ちた言葉(憎まれ口)で挑発する。次に被験者を二つのグループに分け、片方には楽しい映画を、もう片方には不快な気分になる映画を見せる。その後被験者に、先ほど憎まれ口をきいた助手に仕返しをするチャンスを与える。助手の採用/不採用を検討する際の参考にするという名目で助手の評価を求める。すると、仕返しの辛辣度は、被験者が直前に見た映画の内容と明らかな関連を示し、不快な気分になる映画を見せられた被験者のほうが助手に対して怒りの度合いが強く、辛辣な評価となった。つまり、ストレスは人を怒りっぽくする。たとえば、普段はやさしい父親でも、仕事でくたくたに疲れて帰宅したときには子供が騒いだり散らかした程度でも頭に血がのぼってしまう。

二つ目、愚痴を言わない。あなたも、大切な友人に愚痴を言って、怒りを鎮めようとしたことがあるだろう。しかしその場合、二つの問題がある。一つは、愚痴に怒りを鎮める効果はなく、むしろ怒りをさらに増大させる。今度、女子中高生の会話をよく聞いてみるといい。そのほとんどが誰かの愚痴であり、話している本人は、常に憤りを感じているように見える。そしてもう一つは、愚痴をぶつけている相手を傷つける。あなたは友人の愚痴を聞いて、気分がよくなったことがあるだろうか。共感をしてほしい気持ちはわからなくないが、それでも、愚痴というものは誰も得をしないことを知っておくべきだ。

ギャンブラーの誤謬

1913年8月18日、モンテカルロのカジノで信じられないようなことが起きた。ルーレットゲームでなんと、26回連続でボールが黒に入ったのだ。ルーレットに偏りやイカサマがないとすると、26回連続でボールが同じ色に入る確率は6660万回に1回であり、非常に稀なケースである。そして、黒が20回ほど連続して出た頃、「黒が連続して出たのだから、次は赤が連続して出るはずだ」と推測したギャンブラーは、黒以外に賭けた数百万フランの大金を失った。

では、ここで問題である。コイントスを5回繰り返す試行を考える。この場合、5回連続で表が出る確率はいくらか。中等教育段階の数学を忘れていなければ、1/32であることがすぐにわかる。では、4回連続で表が出た後、裏が出る確率はいくらか。この場合も当然、1/32である。

重要なことは、これらの事象は独立であるということだ。つまり、過去の試行の結果は、将来の試行の結果に影響を与えない。今回の件で言えば、たとえ黒が20回連続で出ても、次に黒が出る確率は、これまでと同じく50%である。そのことに気づかず、「運命をプラスマイナスゼロに調整する力」を信じてしまうことをギャンブラーの誤謬という。

おそらく、あなたは賭け事などせず、ソーシャルゲームでガチャを引くようなことはしないのかもしれない。しかし、ギャンブルに限らず、人は何事も最終的にはプラスマイナスゼロになると考えてしまう。以前にも、公正世界誤謬というものを紹介した。

 

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結論。人生は偶然に満ちており、運に頼らざるを得ない場面が多い。そして、あなたに不運な状況が続いても、この先幸運が訪れるとは限らない。私も最近まで、「若い頃に大変な思いをしたのだから、これからはよい人生になるに違いない」という錯覚に陥っていた。

塾講はつらいよ

生徒の成績がなかなか上がらない。結果がでないと頑張った感がでないからモチベーションが下がるね。就職するならちゃんと頑張った分だけ成果がでる仕事したいな。

さて、明日もバイトだ。頑張れ、俺!

 

さよなら👋

ビュリダンのロバ

お腹を空かせたロバが一本道を歩いている。すると、左右2方向の分かれ道に差し掛かった。双方の道の先には、完全に同じ距離、同じ量の干草が置かれていて、甲乙つけがたい。ロバはどちらの道に進むべきか悩み続け、結局、ロバはどちらの道も進まず、そのまま餓死してしまう。

この話は、「ビュリダンのロバ」と呼ばれ、意思決定論を論ずる場合によく引き合いに出される。フランスの哲学者、ジャン・ビュリダンの主張を批判するときに用いられる例え話である。意思決定論自体は非常に難解なためここでは割愛するが、重要なのは、あなたはこのロバのようになってはいけないということだ。

このロバには、右の道に進んでも、左の道に進んでも、同じ結果になることが予測できた。少なくとも、どちらも餓死するよりはまだいい。しかし、どちらかを選択するには、主に二つの「選択の壁」がある。

一つ目、選択には後悔が付き物だ。「こちらではなく、あちらを選択していれば」と、人は後悔をしてしまう。私もつい最近まで、大学のことでひどく後悔していたものだ。おそらく、あなたも「別の選択の方が良かったのではないか」と思ったことがあるだろう。しかし残念ながら、それを確認する方法はほとんどない。なぜなら、別の選択をした場合の結果を知ることができないからだ。つまり、後悔は無駄なことなのだ。私たちは、それを知っているにもかかわらず、後悔をしてしまう。

二つ目、選択する要因がない。甲乙つけがたい選択肢には、一方を選択する理由がない。このロバの場合、右の道を選ぶなら、左の道を選んでもいいわけであり、逆もまた然りである。

その結果、このロバは愚かにも、餓死という選択をしてしまった。「選択の壁」は、時に「死」よりも痛いものなのだ。私たち人間も、このロバと同じような状況になった場合、死を選択するのか。そんなわけはない。私たちは、すでに子どもの頃から、ビュリダンのロバの解決策を知っている。

筆記試験には、ア、イ、ウ、エの中から一つを選ぶ選択問題がよくある。このとき、答えを一つに絞り込むことができなかった場合、あなたならどうしていたか。おそらく、鉛筆を転がすか、神のお告げに頼っていただろう。しかし、大人になった今では、そのような行為は推奨されない。理性・理論を尊重し、論理的に答えを導き出すことが求められる。その結果、どの選択肢も選べないまま、ただ時間が過ぎるか、無回答となってしまう。

結論。私たちは、物事をよく考え、選択肢をある程度絞り込む必要がある。しかし、甲乙つけがたい選択肢に陥った場合、運に頼っていい。そもそも、甲乙つけがたい選択肢は、どちらを選んでもあなたに同じような結果をもたらす場合が多い。人生は試験問題と違い、正解・不正解は存在しない。選択の壁が目の前に現れたら、ビュリダンのロバを思い出そう。

なるほどな…

zoomで研究室の顔合わせをした。明日も合同ゼミなんだよねー。変なメンバーだったなあ。まだ会ったこともないけど。

いやいやよく考えると面白い時代になりましたわ。まさか自宅でオンラインで顔合わせ会が出来るなんて。面接もできるし授業もできるし、やっぱネットは最強だね。

いや待て、最強か?画面にいるその人はその人の虚栄であってその人ではないぞ?いやこれは実際に会ったとしてもそうか。何だろう。俺にはわからん。

哲学を学び始めてわかったことは、俺にはわからないことだらけってことだわ。

 

ほな、さいなら👋

自分の基準の適用範囲

突然だが、あなたにこの問題を解いてほしい。

「何人集まれば、その中に誕生日が同一の二人がいる確率が、50%を超えるか。」

ちなみに、一年は365日(閏年を除く)であるため、366人集まれば、確率は100%となる。一体何人必要なのか、この先を読む前に、直感で答えてほしい。

 

これは、「誕生日問題」という有名な問題である。私がこの問題を問うと、多くの人は100〜300人の間を答える。おそらく、あなたもこの範囲の人数を答えたのではないだろうか。しかし、残念ながら、正解は23人である。70人も集まれば、確率は99.9%を超え、同じ誕生日のペアがほぼ確実に存在する。では、なぜ直感に反した結果になったのだろうか。それは、あなたが自分を基準にしてしまったからである。

あなた以外の22人がいるとき、あなたと同じ誕生日の人がいる確率は50%よりずっと低く、約6%しかない。このとき、50%を超えるには、253人が必要である。あなたはこれを答えとしてしまったのだ。しかし、実際は、あなた以外の人同士の誕生日が同じである可能性がある。あなたが学生だった頃を思い出してほしい。あなたの同級生で、あなたと同じ誕生日の人はほとんどいなかっただろうが、誕生日が同じ二人組みは(双子がいれば確実に)いたはずだ。

私たちは、自分を基準に物事を考えてしまう。客観的なデータが必要な物事に対しても、まるで、あなたの基準が世界の基準であるかのように、判断を下してしまう。あなたの基準は、客観的な事実を求める際には(特に統計学の分野では)、絶対に適用してはならない。しかし、悲しいかな、この世界にはそれを理解してない人が多すぎる。

私の知り合いも、好きな芸能人と誕生日が同じであることを誇らしげに自慢していた。その人からすれば確率1/365の奇跡なのだろうが、この世界には、同じ誕生日の人が約2000万人もいる。その知り合いは、その内の一人でしかない。また、いとこの赤ん坊の写真を見せられ、世界一愛らしい存在であることに同意を求められたことがある。私から見れば、ただの日本人の赤子であり、世界一からは程遠い。

結論。以前にも言ったように、あなたはあなたの基準を大切にすべきである。しかし、あなたの基準の適用範囲はあなただけに収めるべきだ。あなたの基準を、統計的分析や他者の合意を求める際に適用するのは間違っている。そもそも、仕事でもない限り、他人から認めてもらう必要などない。あなたの赤ん坊を愛する人は、あなただけで充分だ。