わっふるぶろぐ

わっふるが日々の出来事をただただ書いていきます~

慈悲は強要するものか?

さて、ブログを久しぶりに更新するわけだが、はじめに、私が22年かけて手に入れた「人生の防具」を紹介していこうと思う。なぜ"防具"なのかというと、人生の中で起こり得る様々な困難から自分を守るための思考の道具だからである。

 

あなたは慈悲(ここでは助けを求めることとしよう)を強要したことがあるか、または強要されたことがあるか。

そもそも"慈悲"の漢字は、「茲心非心(じしんひしん)」と割って「この心、心に非ず」といい、自分の心を中心とするのではなく、相手の心を心として生きることを意味する。

ここでもう一つ質問だが、あなたはそんな風に生きる必要があるのだろうか。

私が西葛西にいた頃の話だ。信号待ちをしていた時、自転車に乗っていた女性が目の前で横転した。前カゴに入れていた複数の荷物が地面に散乱したので、彼女はそれを拾い始めた。私はその光景をただただ眺めていたのだが、彼女は私に手伝うよう目で訴えかけてきた。助けるのがさも当たり前のように。

慈悲とは、もし与えられたら感謝するものである。私は父から興味深い話を聞いた。「ありがとう」の対義語は「当たり前」だそうだ。つまり、本来両者は対極にあるのだ。その感謝されるはずの慈悲をなぜ当たり前のように与えなければならないのだろう。

人は無慈悲であることを良くないと考える。しかしそんなことは決してない。なぜなら、慈悲は与えられない方が当たり前だからだ。困った時は誰かが助けてくれる、そんな期待はしない方がいい。失望するか、人任せな人間になるだけだ。苦しむ人を何の見返りもなく助けようとするのは、自分の人生に余裕がある(さらにその中でも良心的なごく一部の)人だけだ。慈悲を与えられないことに失望するくらいなら、求めない方がいい。

結論。努力をする人を応援するのはいいが、困っている人を無理して助けるのはやめよう。あなたはあなたの人生だけに集中していればいい。あなたの心はあなたの中にあるべきだ。慈悲は強要する必要も、ましてやされる必要もないのだ。